解説文:
ニーチェは「深淵を覗く時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」と記しました。
この言葉に触れるたび、私は、水面というものが単なる自然の表層ではなく、こちらの視線や感情、記憶までも静かに吸い込みながら、逆にこちらへ返してくる不思議な場であることを思わずにいられません。
〈浮枯葉〉の連作では、水面に漂う枯葉という、ごく静かな自然の断片を描いています。そこには秋から冬へ向かう時間の気配があり、衰えと終わりの徴がある一方で、なお光を宿して水上にとどまる、かすかな生の名残もあります。枯葉は朽ちゆく存在でありながら、沈まず、漂い、光に照らされることで、一瞬、永遠にも似た表情を見せます。
こうした水面のイメージには、私の中でどこかミレイの《オフィーリア》を連想させるものがあります。水に身を委ねるものの静けさ、美しさと危うさ、生と死の気配がひとつの画面の中で拮抗している、あの感覚です。もちろん本作に人物は描かれていません。しかし、浮かぶ枯葉を見つめていると、見る者は単なる植物の姿を超えて、失われた時間や記憶、あるいは言葉になる前の感情の気配に触れることになります。
また、これらの作品では、葉の表面や水の奥行きに、工芸品を見るときのようなマチエールの美しさを意識しています。朽ちゆく枯葉でありながら、その襞や縁の微細な起伏、光を受けた肌理には、静かな装飾性さえ宿るように思えます。自然のはかなさの中に、精緻で凝縮した美が立ち現れること、それは写実画として辿り着くひとつの結果なのかもしれません。
水の深みは暗く、静かで、底知れません。こちらがそこを覗き込むとき、見ているのは自然であるはずなのに、いつのまにか自分自身の内なる深みへも降りていく。そのとき、ニーチェの言うように、深淵もまたこちらを見返してくるのだと思います。
写実とは、目に見えるかたちを精密に再現することだけではなく、対象の奥にひそむ時間や気配、さらには触覚的な美しさまでも呼び起こす営みでもあるでしょう。
この連作では、水面に浮かぶ枯葉の微細な表情を通して、自然の静かな深さと、その前に立つ人間のまなざしの往還を描き出したいと考えました。